プログラマー少年 20代で海を渡った理由 N-PAX戸田社長インタビュー前編

npax1

B-EN-Gの海外拠点向け次世代会計基盤システム「mcframe GA」のフィリピン市場での拡販に協力するN-PAXフィリピン社。基幹業務システム構築を中心としたITサービス提供で15年以上の実績を持つ、頼もしいパートナーだ。同社の戸田貴大・社長兼CEOは11歳でプログラミングを始め、20代にしてフィリピンで起業した異色の経歴を持つ。なぜ若くして海を渡ろうと思ったのか。プログラミングとの出会いや同社設立の経緯、フィリピンのIT事情などを戸田社長に聞いた。前半と後半の2回に分けてお届けする。(以下敬称略)
(※B-EN-GはN-PAX社と2017年にmcframe GAのパートナー契約を締結。さらに2019年11月、同社に資本参加した

プログラマー少年、誕生―

「とにかく面白くて仕方がなかった」。戸田がプログラミングと出会ったのは11歳の時のことだ。父親が会社で使っていたパソコンを下取りし、自宅に持ち帰ってきたのがきっかけだった。初めてパソコンにスイッチを入れた時の感触を今でも昨日のことのように覚えている。

機種はNECの「PC–8001」。当時はまだパソコン黎明期だ。電源を入れても小さなディスプレーに「OK」と素っ気なく表示されるのみで、直感的に操作できる現代のパソコンとは似て非なる代物だ。

PC8001
パソコン黎明期に大ヒットしたNECの「PC-8001」シリーズ(NEC提供)

だが、少年はあっという間にとりこになった。人気ゲームソフト「ドラゴンクエスト1」の発売で大ブームに沸く世間をよそに、「ゲームで遊ぶのも楽しいが、ゲームをむしろ作ってみたい」。誕生日プレゼントで父から買ってもらった専門誌を手がかりに、ブロック崩しや自分で考案したゲームのコードをプログラミングする日々が続いた。

中学生になると、家庭用パソコンの「MSX」が普及。周囲にもプログラミングをやる友人が増え始め、パソコン関連雑誌の「マイコンBASICマガジン」(通称ベーマガ)を校内で回し読む毎日に。プログラムの話が盛り上がりすぎて、教師に雑誌を取り上げられたこともあったほどだ。

「正直に言って、当時はあまり大っぴらにできる趣味ではなかったですね。あまり行き過ぎるといじめられるというか。オタクではないといった雰囲気を学校では出すようにしていました」。運動系の部活動にも取り組んでいた戸田は、当時を笑いながら振り返る。

「大学より面白い」ビジネスに熱中

大学入学後、地元の京都で有志を集め、ソフトウエア開発の下請けやゲームソフト制作のビジネスを始めた。「こんなに楽しいことをしてお金までもらえていいの?」。のめり込むあまり、大学1年生時に取得した単位はわずか8単位。実家に届いた成績表を見て激怒した父に対し、戸田はこのように説得した。「実は今、面白いことがありすぎて大学なんか行ってられないんだ」。

入学翌年には、中学生時代に世話になった塾講師が起業した会社に入社し、「ソフトウエア事業部」を設立する。米国やシンガポールなど海外からの受注も含め事業は順調に拡大、社員の数も増えていった。

しかし、順風満帆に見えた戸田だが、一つの疑問が頭をもたげるようになる。

「当時は三次下請けぐらいの事業だったんですね。東京の企業へ出向する機会も増えてきました。ホテルは取ってあるのですが、シャワーを浴びて戻るだけという生活。72時間ぶっ続けでコーディングすることもざらでした。やはり元請けに行くか、あるいは自分たちでシステムを作って販売するべきなのでは・・・、自問自答の日々でした」

toda

世の中がミレニアムに沸いた2000年、25歳になった戸田は突如フィリピンに渡る。

「当初、海外で何が何でも起業しようと考えていたわけではありませんでした。ただ、フィリピンはずっと気になっていた国でした。海外でのプロジェクトに参加する際、米国やシンガポール、マレーシアなど、どこの国に行っても二つの国の人たちを見かけるんですね。インド人、そしてフィリピン人です。『なぜ自国で仕事をしないの?』と彼らに聞くと、『海外の方が稼げるし、ビジネスチャンスも多い』と。フィリピン自体の情報はまったく知りませんでした。セブ島がフィリピンにあるということすら・・・」

軽い気持ちでフィリピンを訪れた戸田に運命的な出会いが訪れる。後に共同経営者となる、当時まだ30代で華僑のウィルソン・ナン(Wilson Ng) と知り合ったのだ。

フィリピンで衝撃

フィリピンの首都マニラから国内線で約1時間半のセブ島を訪れた戸田。ショッピングモールでたまたま立ち寄ったパソコンショップの店員に、島で有名だというソフトウエア開発会社の名前をいくつか聞いた。電話帳で調べて翌日訪問した会社の一つが、ナンが経営するナンカイ社(Ng Khai Development Corporation)だった。

同社は当時、ナンの母が営むイカのすり身加工工場の奥で、プログラマーが作業をしているという環境だった。初めて訪れた際、プログラマーの月給を聞くとわずか1万円。あまりの安さに衝撃を受けた。

さらに印象的なことがあった。「どんなプログラムを作っているの?」と見せてもらったところ、戸田が小学生の頃に書いていたコードと同レベル。年齢は全員、自分より少し上ぐらいだ。だが、どうだと言わんばかりに輝かせた目や、無邪気なまでに生き生きとした表情が戸田の心をとらえた。

「日本での多忙な生活に疲れていたせいもあるかもしれませんが、フィリピン人の良い意味で適当な気質に居心地の良さを感じました。彼らと何かできるんじゃないか。ここでやってみたい」

ニコニコと笑顔を欠かさないナンとも意気投合。2年間のトライアル期間を経て、2002年にナンと共にN-PAX社をセブ島で設立。プログラマー8人に横滑りの形で異動してもらい、日本から受託したソフトウエアやシステムのオフショア開発をスタートした。

退職者が続出

だが、希望に胸を躍らせる戸田を待ち受けていたのは、予想外の現実だった。戸田が日本から持ってきた8人月分の仕事のうち、7.5人月分を戸田、残り0.5人月をプログラマー8人が行うという状況が続いた。

「フィリピン人の質が低いということではなく、やり方の問題。日本のやり方で、日本の方式で納品するとなると、どうしても日本人のブリッジエンジニアに負担が集中する。これでは東京で72時間ぶっ通しでコーディングしていた頃と何も変わらない」

労務面の問題も頻発。日本人には月給2万円も3万円も大きく変わらないように感じるところだが、フィリピン人たちの間では「50%も違う」と大問題に。給料バランスも実力通りになっておらず、退職者が続出する事態になってしまった。

「会社設立3年後ぐらいからフィリピンのことを勉強しました。今思えば、私は技術者でプログラムさえできれば良いといった人間でした。君たちもそうだよね、といった勝手な押し付けが従業員に対しあったんですね。そうではなくて、経営者としての視点が必要だと感じました。財務や労務、法務を勉強し、地元の商工会に入って情報収集に努めました」

共同経営者のナンに感謝

事業内容も会社設立4年目に転換。日本からの受注型プロジェクトをすべてやめ、自社製品の開発プロジェクトを行うことにした。これが同社で現在主力となっている、基幹業務系システムの「NXPERT」、人材管理システムの「Human Resource Companion」の始まりだ。
※上記製品についてはこちら(英文のみ)

プログラマー8人からスタートした同社は現在、グループを含めて社員220人と大きな成長を遂げた。だが、戸田は「本当に運が良かっただけ」と謙遜する。

photo
戸田社長(左から3番目)と笑顔で写真に納まる共同経営者のウィルソン・ナン氏(同2番目)

「共同経営者のナンとビジネスについて議論する時、以前はナンに対して疑問を持つこともありました。ナンが石橋を叩いて渡らないタイプとすれば、私は石橋を見ずに飛び越えたいタイプ。華僑の人たちは何て保守的なのだろうと思ったものです。しかし今思えば、私があまりに向こう見ずだったんですね。今は逆にビジネスプランにしても何にしても、多角的な視点で緻密に考えることができるようになってきました。ナンのおかげです。20年前、日本から来た見ず知らずの若者の話をよく聞いてくれたと感謝しています」

※N-PAX社のWebサイトはこちらです。
文・共同通信デジタル 須藤祐介 撮影・平舘平

後編に続く

漫画_世界で闘う準備はあるか

すべてのタグ